石鎚教について

石鎚教は大正14年9月、開祖・初代管長世良久胤(せら ひさたね)により立教され、当初は扶桑教の一分派と称していました。その後、昭和21年2月1日、文部省の認可を受けて神道系宗教法人となりました。
石鎚大神を主祭神とし、石鎚大権現を併せ祀り、石鎚山修験道の流れを汲み神式・仏式の両形式にて祭祀しています。
世の中の平和、そして各人の心願成就を祈念するとともに、心身を磨き自らを高めることを目指しています。

【立教から現在まで】

立教当初は愛媛県西条市大町の地に本部を置き、四国・中国・九州を中心に全国から多くの信者が開祖を慕って訪れました。昭和20年代の石鎚教は日本各地に120以上の分教会を持ち、教師、信者の拠点となっていたことは、愛媛県史にも記されているところです。
時代の流れとともにその多くは閉鎖に至り、最盛期には7万人を越えた信者数も減少しましたが、現在でもなお各地の分教会では教えが大切に受け継がれ、祭祀が続けられています。

昭和42年、2代目管長伊瀬盛司により本部を大阪府泉南市に移転。のち昭和55年、愛媛県西条市西之川、石鎚登山ロープウェー下谷駅近くに石鎚教奥之院を開設。さらに本部は香川県三豊市詫間町の地に移転し、平成16年に本殿、翌年に護摩堂が建立されました。

先人たちの教えを受け継ぎ、高度な技術が発達した現代社会においてそれらを活かす手段を探りながら、この地で祭祀を続けています。 

祭神

・石鎚大神
・石鎚大権現
・天御通久胤大人命

【石鎚大神】

その御神徳はあらゆるものに隈なく貫かれている。石鎚大神の大御心により、天地自然は豊かであり、國土は立栄え、人民の生命が紡がれてゆく。

【石鎚大権現】

忿怒の形相で魔を降伏し、大慈悲によって人々を救う。禍を除き、罪を滅し、善を生み出して大願を成就せしむる。

天御通久胤大人命

- 開祖 世良久胤 -

石鎚教開祖・初代管長世良久胤の御霊神を 『天御通久胤大人命(アメミトオシヒサタネウジノミコト)』との神名にてお祀りしています。

世良久胤(せら ひさたね)は明治30年12月7日、愛媛県新居郡橘村禎瑞(現在の西条市禎瑞)の地に生を受けました。
生家は戸田姓、九人兄弟の末子。名を庄左衛門、後に久胤と号する。世良花と結ばれ、壬生川に住まう。


大正14年9月、石鎚教を立教。現在のJR伊予西条駅前にて教会を開きました。当初は商店の2階を間借りして教会とし、祭祀を行っていましたが、昭和4年に新たな教会を建立して移転。
この地は今でも石鎚教元宮として開教当時のまま残され、祭祀が続けられています。
 

神道、密教、修験道に通じ、石鎚山中深くに籠って修行を重ねることで霊力を磨き、混迷する時代の中で 人々の苦しみを和らげてきました。

勤勉で、宗教のみならず法律や民間医療にも明るかったため、信者らの相談ごとに対して必ずしも神仏にすがる方法だけを説くのではなく、現実的な対処法を授けることができたといいます。


教会には全国から多くの信者が参拝し、病による苦しみ、生活や家業の不安などの相談のために訪れる人が日々後を絶たちませんでした。祭典の日には境内に参詣者が溢れかえるほどだったと伝えられています。

石鎚教開祖・初代管長世良久胤は、祭祀に携わる教師らを指導し、数多くの信者たちを束ね、大きな心の支えとなる存在だったのです。 日々の営みの中で悩みや迷いを抱える信者らに進むべき道を示し、慈愛に満ちた姿勢で心身の苦しみを取り除きました。

戦後の混乱期、愛媛釈放者保護会の理事長として、刑期を終えて釈放された人たちを支援する社会福祉活動にも尽力し、さらには交通・運輸業において実業家としても活躍。その名は愛媛県紳士録にも記載されています。

神仏への信仰を通じて人の道を説き、信者としての日常生活の指針となる 三十三カ条の教訓を遺すなど、その教えは今に伝えられています。 

昭和42年10月29日、永眠。享年69歳。